民権運動とは?
民権運動を理解するポイント
「民権運動」を辞書でひくと、「専制的な政府に抗議し、民主主義・人権の確立、国会の開設などを目指して起こった国民的政治運動」とあります。
ここで注目すべきは、明治に入るまで日本には「民主主義」や「人権」という言葉も概念もなかった点です。
「議会」というものでさえ、ほとんどの人は知らなかったはずなのです。
しかし明治10年頃にはそれを要求する下からの運動が起きているのですから、明治維新の浸透のスピードがいかに速いかがわかると思います。
このような特殊な社会変化の中で、自由民権運動が起こっていると意識することが、理解する上での大事なポイントになります。
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板垣退助の動きから読み解く自由民権運動
そもそも「自由」や「平等」の概念を、西洋に追いつくために急速に広めたのは政府や啓蒙思想家たちです。
それでも結果として、反政府的なイデオロギーを生みだししまったところが面白いですよね。
つまり政府は「自由権」や「平等権」をベースとする諸政策を進める一方で、それらの権利を求める国民の動きを封じる政策も進めているのです。
それを象徴している政治家が「板垣退助」であり、彼の動きを追うと、政府側の動きも民権派側の動きもよく理解できるようになります。
板垣退助の動きによって民権運動の広がりが加速し、また民権運動を弾圧する政府の動きも加速するのです。
板垣退助が民権派側にいる時は、ある程度、統制の取れた運動になりますが、彼が民権運動から離れたところにいる時は、民権運動が暴走したり、民権運動の方向性が変わったりします。
それを踏まえて、自由民権運動を次の3つの視点で考えてみましょう。
【自由民権運動の3つの視点】
A 板垣退助を中心とする民権運動の広がり
B 憲法制定や民選議会設立を求める動き
C 民権運動の高まりと政府の対応
上の3つの視点について考えてみましょう。
その際ポイントとなるのは、AからCの時に板垣退助はどこにいたかです。
Aの時は、政府から下野して民権運動の主導的役割を果たしていますが、大阪会議の後に政府復帰してしまいます。
Bの時は、自由党を結成して再び民権運動側に身を投じています。
しかしまもなく暴漢に襲われ、その後しばらく一線から退いて議会開設に備えています。
その結果、Cの時期には民権派にも政府にもいないことになります。
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自由民権運動の概要
自由民権運動の3つの視点
「自由民権運動の3つの視点」を意識しながら、具体的に民権運動のできごとについて追っていきましょう。
・明治六年の政変で板垣退助が下野
・愛国公党が太政官左院に民撰議員設立建白書を提出
・高知で立志社設立
・大阪で愛国社結成
板垣退助の行動には一貫性があります。
政府にいても下野しても彼が求めているのはただ一つ。
「話し合いで決められる政治を!」ですね。
板垣退助は土佐藩出身で、政府の中では格下なのです。
何かを話し合っても最後は薩摩・長州出身者の意見が通ることにフラストレーションが溜まっています。
ですから「議会制度」「憲法」などに基づいた真の近代化を目指しているのです。
その意味では、下野してからの板垣の方が生き生きとしますね。
しかももともと政府の要人ですから、政府の弱みも知っているわけです。
一方で板垣のポリシーからして、権利を要求する時も、きちんとしたルールや手続きに沿った主張をします。
ただの暴動やデモを好みません。
その分、やたらと政党を作ったり結社をしたりするのです。
上にあげた、「愛国公党」「立志社」「愛国社」はすべて板垣退助の意図で作られた組織であり、「民撰議院設立建白書」も正式な手続きに基づいて板垣が提出したものです。
大阪会議
・1875 大阪会議開催
・漸次立憲政体樹立の詔
・地方官会議の開催
・讒謗律・新聞紙条例
続いて、1875年の大阪会議についてみてみましょう。
この会議は大久保利通が板垣退助に政府復帰を要請するための会談です。
板垣は復帰する代わりにいくつかの条件を出しました。
その条件とはもちろん彼のポリシーに沿ったものですね。
「憲法、議会を基にした政治を実現せよ」に対して大久保は「漸次立憲政体樹立の詔」で応えます。
今すぐではないけど、徐々にそうしていくことを約束したのです。
また「地方の意見も聞け」」という要望には「地方間会議の開催」で応えたわけです。
それでも大久保が板垣を政府に戻したかったのは、民権運動の勢いを抑え込みたかったから。
政府の内情を知る板垣が、民権派側にいると厄介だからです。
その証拠に、板垣の参議復帰が決まってすぐ、讒謗律・新聞紙条例を出して、言論・出版の統制を行います。
自由党結成
1880 国会期成同盟
1881 国会開設の勅諭 板垣退助が自由党結成
1880 集会条例 旧自由党員の激化事件
1880年、板垣退助を失った愛国社は国会期成同盟と名前を変えて、議会設立にポイントを絞って政府への要求をすることにしました。
これに対して政府は、集会条例により統制を強めますね。
ただし時代の流れを考えて、10年後の国会開設を約束します。
国会ができるということは、憲法もできるということです。
これに反応したのが板垣退助ですね。
再び下野していた板垣は、議会開設に備えて政党を作ります。
これが自由党です。
民権派は、自分たちが望む私擬憲法を作ったり、政党の活動を進めたりします。
しかしそんな時に板垣退助が暴漢に襲われます。
板垣はしばらく一線を退くこととなりました。
せっかくできた自由党も解党となります。
統率者を失った党員たちは、各地で騒動を起こすなど暴走していきます。
「福島事件」「秩父事件」「大阪事件」などですが、反政府の過激な事件が旧自由党員を中心に多発したのです。
小異を捨てて大同で結束:星亨・後藤象二郎の要求
1887 大同団結運動(三大事件建白運動)
1887 保安条例
議会を設立したり、憲法を作ったりする目的が達成されてしまうと、民権運動は新しい目標を見失います。
政府に対して要求する内容が、人によって異なってしまったのです。
それを再度まとめたのが、旧自由党出身の星亨、後藤象二郎でした。
この二人は板垣退助とも関係が深く、民権運動をまとめるのに適した人物でした。
星亨は、民権運動の目的を3つに絞ります。
「三大事件建白」ですね。
要求したい内容はたくさんあっても、焦点を絞ることで運動の効果を高めようとしたのです。
小異を捨てて大同で結束しようという「大同団結運動」の具体策です。
それに対して政府は再び「保安条例」で弾圧します。
いつものパターンですね。
自由民権運動の終わり
そして1889年に大日本帝国憲法が発布され、初期議会がスタートします。
それ以降は、議会の中での争いになるので民権運動という考え方ではなくなります。
以上が、民権運動の概要です。
板垣退助の動きが、民権派の動きや政府の対応に影響を与えていることがよくわかったと思います。
このような流れを意識しながら、民権運動に関わる事象について「興味を持って」学習してみると、理解しやすくなると思います。
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