記事と筆者の信頼性
・難関大学に日本史受験で合格した人が記事を執筆
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・編集者は予備校講師として、2,000人以上の受験生を指導
藤原氏といえば、日本史に登場する一族の中でも、かなり有名な一族ですよね。
そしてこの一族は、とても人数が多く、苦手とする受験生もたくさんいます。
日本の歴史における最大氏族ですから、覚える量は少なくありません。。
藤原氏の始めとなる藤原鎌足から、藤原氏の権威を衰えさせた藤原頼通までおよそ400年あります。
今回はとりあえずこれだけは確実に覚えておけ!という藤原氏を15人ピックアップし、さらにそれを時代ごとに分類してまとめました。
また歴史上の人物を覚えるときには、代表的な出来事とセットで覚えるのが効率が良いので、それも一緒にまとめています。
重要な15人を覚えることで、藤原氏の歴史の骨組みを理解することができるので、土台がガッチリと固まります!
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藤原最初期(飛鳥時代後期)
藤原鎌足―(大化の改新)
藤原鎌足は、元は「中臣鎌足」という名前でした。
中大兄皇子と協力して、当時、権力の中心人物であった蘇我氏を倒します。
これが大化の改新です。
中臣鎌足は、臨終の際に、その功績を讃えられ「藤原」の姓をもらいます。
これが「藤原氏」の始まりです。
藤原発展期(奈良時代―平城京のころ)
この時代、権力者は自分の息がかかった者を天皇にすることで、政権を握っていました。
天皇を自分に都合のいい操り人形にしていたのですね。
藤原氏も、もちろん自分に都合のいい人物を天皇にしようとしていましたが、この頃はまだまだ権力が安定していません。
なのでこの時代は、藤原氏とそれ以外の人物が、交互に実権を握っています。
藤原氏に挟まれている人物もセットで覚えておきましょう。
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藤原不比等―(大宝律令の編纂(へんさん))
藤原不比等は、鎌足の次男です。
大宝律令という、今でいう法律のようなものを編纂しました。
また娘の宮子を文武天皇に嫁がせ、のちの聖武天皇を産ませます。
さらに聖武天皇には、不比等のもう一人の娘「光明子」を嫁がせ、のちの光明皇后を誕生。
自分の親族を天皇に嫁がせ、その子を天皇にすることで、自分に都合の良いように操れるようにしていました。
藤原四子(武智麻呂・房前・宇合・麻呂)―(天然痘で死亡)
藤原四子とは、藤原四兄弟のことです。
武智麻呂、房前、宇合、麻呂の順に南家、北家、式家、京家と分かれます。
四兄弟は相次いで天然痘で死亡してしまいますが、それぞれどこの家の出身なのか覚えておく必要があります。
どの天皇のときに、どの藤原が活躍したかも覚えておきましょう。
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藤原広嗣(式家)―(藤原広嗣の乱)
藤原四子の死亡後、藤原氏の権力は一時衰えます。
大宰府に左遷された広嗣は、不満を爆発させて、藤原広嗣の乱をおこしました。
乱は鎮圧されてしまいますが、この時天皇だった聖武天皇は大変ショックを受け、その後遷都を繰り返すようになります。
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藤原仲麻呂(南家)―(藤原仲麻呂の乱)
仲麻呂は、叔母の光明皇后の後ろ盾を得て実験を握りましたが、聖武天皇と光明皇后の娘「孝謙天皇」と、彼女が寵愛した僧侶の道教と対立。
反撃したものの返り討ちにされてしまいます。
これが「藤原仲麻呂の乱」です。
藤原百川(式家)―(道教追放)
称徳天皇(孝謙天皇)の死後、光仁天皇を擁立して、道教を追放し藤原氏発展のもとを作りました。
藤原安定期(平安時代前期あたり)
この頃になると、藤原氏の権力もだいぶ安定するので、藤原が中心的に実権を握るようになります。
藤原種継(式家)―(長岡京造宮使)
種継は桓武天皇に信任され、長岡京造宮使になりましたが、皇太子早良親王と不仲になり暗殺されてしまいます。
藤原緒継(式家)―(徳政相論)
桓武天皇は、晩年「徳のある政治」とはどんなものか、ということについて、藤原緒継と菅野真道の二人の政治家に議論させました。
これが徳政相論です。
徳政相論は、議論された内容まで含めてしっかり覚えておきましょう。
藤原薬子(式家)―(薬子の変)
娘が平城天皇の妃だったことから天皇の寵愛を受けていました。
天皇の譲位後、兄の仲成と嵯峨天皇を廃して、平城天皇の復位を企てましたが、失敗に終わり、薬子は自殺しました。
藤原冬嗣(北家)―(蔵人頭に就任)
嵯峨天皇が、藤原薬子に対抗するために作り出した「蔵人所」、その初代長官に任命されたのが藤原冬嗣です。
のちに左大臣になり、藤原氏による摂関政治の基礎を築きました。
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藤原全盛期
摂関政治で藤原が権力をすべて握る、まさに藤原の全盛期です。
有名な藤原道長や藤原頼道は、この時期に登場します。
摂関政治の基礎を築いた藤原冬嗣は北家の人間なので、冬嗣以降の藤原は北家の人になります。
藤原良房―(人臣初の摂政)
妹、順子の子供である文武天皇にせまり、孫を清和天皇として即位させたあと、自身が人臣初の摂政となり、実権を握りました。
藤原基経―(人臣初の関白)
陽成天皇を廃位し、高齢の光孝天皇を即位させ、自身は人臣初の関白になりました。
光孝天皇の皇子・宇多天皇は、その後、基経を「阿衡」という、名ばかりの役職に任命しましたが、基経がこれに激怒し、宇多天皇に撤回させました。
これを「阿衡の紛議」といいます。
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藤原時平―(菅原道真を左遷)
時平は、父である基経が亡くなった時点ではまだ幼かったため、宇多天皇は親政をはじめ、学者の菅原道真などを起用しました。
その後時平は、醍醐天皇が即位すると、道真と共に左右大臣になりますが、次第に対立し、最終的には道真を大宰府に左遷して実権を握りました。
藤原道長―(4人の娘を天皇の妃にする)
娘を次々に妃にし、自身は外戚となり、摂政、太政大臣を歴任。
まさに藤原の全盛期として栄華を極めました。
道長は、「御堂関白記」という日記を記していますが、関白になった事実はないので注意しておきましょう。
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藤原頼通―(平等院鳳凰堂を造営)
父である道長から、若くして後一条天皇の摂政を譲られ、父の死後は、朱雀天皇・後冷泉天皇の関白に就き藤原全盛期を築きました。
しかし、天皇の妃にした娘から男子が生まれず、藤原と外戚関係にない後三条天皇が即位したことで、藤原の権力は衰退をはじめます。
現在10円玉の裏に描かれている「平等院鳳凰堂」は、この頼通が造営しました。
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高校日本史の藤原氏の解説まとめ
ここまでの内容は、確実に覚えてください。
入試を攻略する上で、藤原氏に関する知識はさらに広げなければいけませんが、その前にまずは骨組みを固めることが大切です。
ここまでお伝えした内容を、まずは軸として完ぺきにインプットしましょう。
奥州藤原氏や、摂関将軍の藤原氏など、紹介できなかった重要人物もいます。
ここで学んだ内容を完璧に固めて、そこから少しずつ知識を追加していきましょう。
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